土生の歴史


土生町の歴史について


                                           玉 谷  哲(郷土史家)


 土生のあけぼのは土生・畑の弥生遺跡群と、流木出土の二銅鐸から二〇〇〇年以前まで辿ることができる。その頃中国長江下流から水稲農耕技術をもった渡来人が「七夕伝説」とともにやってきたのが土生・阿間河地区なのである。古墳時代の後期には大山に鳥取部萬と犬の墓といわれる大山大塚古墳・大塚や向山古墳が作られ、東側丘陵には神明山古墳・三合塚、海岸寺山丘陵にかけて岡崎古墳群や福塚が見られる。古代氏族には安幕首や土師氏の存在が考えられている。
 佛教伝来によって、飛鳥時代の末には、周辺で小松里廃寺(小松里)、奈良時代前期には秦寺(半田)、別所廃寺(別所)が建てられ、奈良時代後期には「土生堂ノ後廃寺」ができたと見られ、その南面には大門の地名も残っている。律令時代には、和泉国和泉郡(のち南部)木嶋郷に属しており、東西に官道南海道が通過していた。土地制度としての条里は和泉国府を中心とする南北の軸線の北が西に四六度傾いて施行されていて、南海道もその東西線に乗っている。久米田寺文書には「土生里」「小路里」「上鏡里」が見える。坪名としては畑に戸(十)ノ坪、十三ノ坪、三十五坪が残り、土生には小坪だけが地名に残っている。

 中世郷村が成立し、土生郷・土生度といわれるようになり、鎌倉時代初めの頃は得宗領であったようであるが、元弘年間、千早攻めの功で土生郷の開発領主となった平氏は土生を名乗るようになり、明応九年(一五〇〇)には土生所領あとを日根野氏にあずけたのが見えるが、土生氏はその後も在地したらしく、「土生氏系図」によれば、天正九年(一五八一)信長の上洛、畿内進出に伴い土生城を捨てて麓の居館に移ると見える。その居城は字山下の泉光寺附近の地と思われている。後の「和泉三十六郷士記」には土生重右衛門土生領主と見えており、その子孫が紀州藩に仕えたとしている。また暦応元年(一三三八)十月和泉守護細川顕氏が高野山高祖院に「和泉国土生郷地頭職三分一」を祈祷料として寄進している。

 天正十三年(一五八五)秀吉は根来攻めの後、岸和田藩主として小出秀政を置き、和泉の代官を兼ねさせている。文禄三年(一五九四)秀吉は兵農分離をはかって刀狩りを行い検地村切りによって初めて土生村が誕生する。村高は一、九五八石余(土生村一七一五石余、土生滝村二四二石余)。また慶長九年(一六〇四)の土生村検地帳では村高二、二七六石余、うち三一八石余は「土生ノ内さくさい村分」となっている。土生滝村は正保三年(一六四六)、作才村を天正年中に分けたと伝えている。小出氏は秀吉治下から徳川治下へと三代受け継ぎ、元和五年(一六一九)松平康重が五〇、〇〇〇石で入封し、岸和田藩領が確立される。土生村の庄屋は山中甚次郎と見える。寛永八年(一六三一)松平康重はニ割増高を願い出て許され、岸和田藩は高六〇、〇〇〇石となる。この高を今高といい、増高前を古高といっている。従って土生村は今高一三六八石六六五となり、作才村を分かっている。このころの藩領の郷荘別では土生郷として、土生村・作才村・土生滝村・岸和田村を記すのも見られる。
 また、中世惣村の発生に伴い、土生地域では、諸井堰郷(紅葉川井郷)、板屋惣基(基郷)、神於山郷(入会)が成立、神社には宮座が営まれていた。寛永十七年(一六四〇)松平康映が襲封するが、代わって岡部宣勝が高槻から六万石で入城する。入城に当たって藩領の庄屋・農民が貢租の減免を強訴したと伝えられ、その責を負って土生十左衛門ほかが死刑になったといわれている。万治三年(一六六〇)には土生から分かれた作才村の一村逃敗事件が起きている。松平氏の跡を襲った岡部氏の藩治は赤字続きで寛文三年(一六六二)には藩札を発行し、宝永五年(一七〇八)には大和川の付替工事の手伝い役を幕府から命じられるなどで文政三年(一八二〇)には藩の借財総額二十五万六〇〇〇両に達し、大根屋小右衛門に財政再建を請け負わしている。文政十年(一八二七)十一月二十日岸和田城天守閣が焼失し復興されないまま廃藩置県を迎える。

 明治四年七月岸和田藩は岸和田県となり、十一月には堺県に吸収され、旧岸和田藩の区域は消滅する。以下明治五年二月和泉国第十八区に属し、同七年一月二十二日第三大区一小区に改まり、同年四月その七番組に入るが、同九年十二月番組廃せられもとの大小区に帰り、同十三年四月岸和田郡役所部内となる。同年同月二十三日第二連合に属し、同十四年二月七日大阪府直轄となる。翌十五年三月五日連合をはなれて一村独立し、同十七年一月第十一戸長役場の管理区域に入り、同二十二年四月町村制施行に当り、土生村・作才村・畑村・極楽寺村・流木村五ヶ村の区域をもって一村を設け、土生郷村と名づけ、各村はその大字となり、そのまま南郡の所属であったが、明治二十九年四月一日泉南郡に属することとなる。泉南郡土生郷村大字土生村となってから発展を遂げてきた地域に昭和五年阪和電気鉄道が開通し土生郷村駅が誕生する。合併の機運が高まって昭和十三年三月三日土生郷村は岸和田市に併合され、土生村は土生町として岸和田市の一員となり現在に至っている。


                      
                     土生神社に伝わる土生村の明和六年田畑水帳(非公開)