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土生の史跡 |
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川、池、渕 |

池の堤を熊野街道が通っている。傍らに道しるべのお地蔵様が祀られている。

土生神社の境内に今も水が湧いている。かつては三ヶ所から湧水が見られたという。水が湧いている所を選んで神社が祀られたと思われる。

土生神社の南側を流れている水路で土生の水田を潤してきた重要な水路。名前の由来は不詳。立川文庫の難波戦記にこの川のことが出ている?という。

作才、上松附近に和泉式部伝承がたくさん残り、土生にも式部淵があった。このほか近年まで土生の集落内に淵が散在し稲籾を浸したり、防火用水に使われていた。山下、門前町周辺には現在も天水の溜まる淵が残っており、一部利用されている。

恋ざめの淵(作才町)
中島村と書かれたものがある。また孟正寺は土生堂ノ後廃寺の名称か。万治三年孟正寺池の堤防が決壊したという。
中島池

孟正寺池

孟正寺池堤
寺院 |

浄土宗寺院 創建年代は不詳 寛文十一年欣誉上人の中興 市の天然記念物に指定されている境内のいぶきの下で昔は土生の鼓踊りが踊られていた。


岸和田市指定天然記念物 西向寺のいぶき
浄土真宗本願寺派寺院 慶長六年正祐上人開創 本堂は十輪寺から移築したもの。

現在は小学地名のみ残る。泉光寺が出来る以前土生氏の居城の出城のような建物があった場所か。以後お寺に関連するお堂があったと思われる。
遊閑堂跡付近
臨済宗妙心寺派準別格寺 山号天端山 寛永十七年初代岸和田城主岡部美濃守宣勝が播州竜野から高槻を経て岸和田に移封されてより寛文元年老いて二代行隆に封を譲り、ここに別荘を建て起居した。同八年72歳で卒去し、遺言によりここに亡骸を葬り岡部氏の菩提所とした。以後の藩主代々の墓が境内に並ぶ。もともとこの地は土生氏の居城があった場所と見られ、山下は城を指す言葉と考えられている

古代遺跡、古墳 |

古代から中世の遺物包含層が発見されているが、遺構などは見つかっておらず、どのような性格の遺跡かはわかっていない。秋田池という池が附近にあったが埋め立てられ現在は駐輪場になっている。
土生秋田遺跡付近
畑町の東部、極楽寺町の北部、神須屋町の大半にまたがる広大な弥生時代から平安時代に至る複合遺跡。古津田川の氾濫原(扇状地)上に位置する。岸和田市内でもっとも多くの遺物が収集され、住居跡のほか方形周講墓なども発掘された。

昭和48年以降数次の発掘調査により弥生〜古墳時代の集落遺跡が発見されている。製塩土器が多数見つかり、津田川の水運を利用して海水を運搬したとも考えられ、製塩に関連すると思われる周溝状特殊遺構も発掘された。発掘された遺跡の中心部は現在の土生町2丁目の城南公園あたり。
土生遺跡発掘風景
土生町字三合塚、現葛城町にかつてあった古墳。前方後円墳であった可能性があり、全長100メートル内外であったと思われる。
三合塚古墳跡付近
市営山下住宅内に神明山跡の碑が建てられている。刀剣が出土し埋め戻して祀ったという。日本武尊が白鳥と化して降り立ったとの伝説がある。かつてこの附近に作才村の氏神があり、後に上松の御宮に合祀されたとも言われている。

信仰 |

明治時代に土生神社の境内に移されたが、旧暦七夕に牛を引いてお参りしたり、子供たちが相撲をとったりした。現在は土生神社の末社として牛頭天王(スサノオノミコト)をおまつりしている。昔はひと村ごとに牛神が祀られ、幸福荘の裏に神須屋町の牛神が残っている。

岡部公が岸和田入城の際沼村の川崎久左衛門、信達村の梶本某と共に強訴に及び刑死した土生十左エ門を弔って建てられた五輪塔。藩にはばかって「歯神さん」として信仰されてきた。附近は大門と呼ばれ奈良時代後期寺院があった場所に隣接する。

土生と上町の境界にあり、土生からは烏の森と呼ばれている。和田高家が岸和田(古)城を築いた時九州から宇佐八幡宮を勧請したという。村の境界の番所だったか。現在は末長大善神を祀る。

村の鬼門と裏鬼門に幸の神様が祭られ、十月にそれぞれお祭りが行われている。幸(賽)の神様はもともと村に疫病など入らぬよう塞ぐ神様で村の四方にあった。


明治11年地元有志の信栄講によって遥か四国の金毘羅宮にこの地より献燈のため一対の石灯篭が建立された。

孟正寺池の堤の近くの田の傍らに二つの塚の形跡が残る。二つは夫婦と伝えている。近隣では八田町会館で庚申さんを祀っている。また極楽寺の境内に庚申塔が残っている。


現在の葛城中学一帯にあった。古くから八幡社があり、応仁年中に焼失したともいうが、岡部宣勝公が山下に隠居した後土用干しの具足を座敷に飾っていたところ首に輪のある山鳩(八幡鳩)二羽きて冑の八幡座に留まったので武運の吉瑞であると喜び程なく飛び立って留まった所に八幡宮を勧請した。宮寺の八幡山感応寺が明治維新まであった。明治41年土生神社に合祀、本殿前の神門は山下八幡から移築したものである。

土生新田の集落の中心部にある。春と秋の年二回新田の人によって祭が行なわれている。由来は不明。以前横に淵があったが今は埋立てられ倉庫になっている。

道など |

古代の南海道であり、平安後期以降熊野参詣が盛んとなり熊野街道、また小栗街道と呼ばれた。白河法皇はじめ上皇貴族が土生周辺を通過し熊野参詣が行われていた。土生神社の創建伝承も白河法皇の熊野参詣に関連づけられている。

札場の五叉路から西向寺、土生神社、旭小学校の前を通り極楽寺町の方に抜ける旧道。更に南に進むと清児や三ツ松を抜け、熊取を越え、大木で粉河街道に合流している。室町時代粉河街道の間道として根来・粉河の軍勢が往来する要路だった。大木・熊取越えから街道名がつけられたか。

葛城街道とも呼ばれ、現在の岸和田城神明口を起点に、現在の上町から今池公園、税務署の南側を通ってJR阪和線踏み切りよりやや南側をもともと通過し、牛ばみ池の堤にぶつかって二手に分かれていた。一方は村の集落を通り、一方は村のはずれの田の中を通って土生神社の横を抜けてわかれとで合流していた。神社の横を通る方の道を本道と呼んでいた。

旧塔原街道分岐点附近
東岸和田踏切そばの地蔵・旧塔原街道 
長三郎商店・丸市鮮魚店の前の五叉路。昔高札が立てられる村の中心の場所だった。道しるべのお地蔵様が立っている。


旧塔原街道と現在の岸城塔原線が合流するところ。もともと牛ばみ池の堤で二手に分かれていた旧塔原街道が合流するところであった。

札場から孟正寺池・中島池の堤横を通り泉光寺に行く道。岸和田城主が月参りの道に使いお成り道と呼ばれ、中島池堤周辺に並木が植えられ小字地名が残る。

近代、現代遺跡 |

昭和3年昭和天皇御即位御大典記念事業として堺の甲斐町西にあった第三十四銀行支店の建物を買い受け移築した青年会館の跡地。西向寺の境内の一部が使用されていた。
土生青年会館跡付近
明治15年頃より玉葱栽培を始めた土生新田の阪口平三郎を顕彰する碑。以後玉葱栽培が広がり泉州の名産となった。

中島池畔に建つ。明治三十一年十一月十五日陸軍大演習をこの地で明治天皇が天覧されたことを記念する碑。以後も陸軍の演習は天覧こそないが秋の刈り入れ後の恒例行事となり、土生でも民家が軍隊宿舎に当てられた。
