森からの手紙


森からの手紙:平成18年/正月号


新年を迎えて

                             宮 司  阪井 健二

 新年あけましておめでとうございます。
 新しい年の訪れを寿ぎ、氏子崇敬者皆様の本年一年のご多幸ご健勝を祈念致します。

 さて当社は土生町の氏神様として氏子崇敬者の皆様に厚く信頼されている神社です。
 一町でこれほど立派な氏神様を持っているところは岸和田市内はもとより全国でもあまり例がないと思われています。
 かつては基本的に一村一社の氏神様が祀られてきましたが、明治政府の神社合祀令により、複数の村で一つの氏神様を祭るかたちに改められました。その時その地区の主要な神社に周囲の村の神社が統合されてしまいました。
 当時土生は極楽寺・流木・畑・作才とで土生郷村を形成していました。土生郷村の成立は明治二十二年のことです。五つの区のうち極楽寺・流木・畑は阿間河荘の一ノ宮とされる矢代寸神社に合祀されました。
 この頃この土生神社も矢代寸神社に統合しようとする動きがありました。それが区長も勤められた山原作太郎氏の尽力などによって回避されたと今に伝えられています。
 逆に同じ村の中にあった樫の八幡社が明治三十五年に、山下の八幡宮が明治四十年に当社に合祀されています。また牛神社も当社の境内にその頃移されています。
 現在本殿に向かって左横に神明神社と並んで右の祠があります。これは肇国神社と呼ばれ、神武天皇を祭る末社ですが、この祠はどうも樫の八幡社から持ってきたものではないかと考えられています。
 一方山下の八幡宮は岸和田藩主岡部宣勝公に纏わる創建伝承が知られていますが、お宮はもっと古くから存在したらしく、応仁年間に一度焼失したとも伝えられています。岸和田藩主の八幡信仰によって、山下八幡宮は立派なお宮に発展し、社領三町二反一畝十三歩が与えられ、宮寺の感応時には二十石が寄進され、例年八月十五日には放生会が行われていたそうです。
 かつては広大な敷地が現在の葛城中学から泉光寺の辺りまであったようで、泉光寺に隣接する遊閑堂という小字地名もこの八幡宮か宮寺に関連した地名かも知れないのです。そして今注目しているのは泉光寺のすぐそばにあるワタクシ池とも呼ばれる鉾立池の名前です。小字地名にもなっているこの鉾立という言葉は全国的に見ると神事があります。やはりここの鉾立も山下八幡に関連する名前ではないでしょうか。昨年の暮れ玉谷哲先生に会った時この地名について尋ねるとお宮さん、八幡さんに関係しているかもしれないと言われたので先生も同じように考えていると思いました。
 現在当社の本殿の前にある神門は岡部宣勝公が山下八幡を創建した時のものをそのまま移築したとする伝承もあります。山下八幡は明治四十一年十一月十一日に合祀されたとされており、合祀から再来年でちょうど百年の節目を迎えることになります。当社にとっても大きな意味を持っていた神社合祀から百周年の来年を有意義な節目にしていきたいと今から考えています。