森からの手紙


森からの手紙:平成18年/新緑号


きれいな青空のような瞳をした
       すきとおった風のような人


                             宮 司  阪井 健二

 昨年の四月二十五日起きたJR福知山線脱線事故は百七名の死者と多くの負傷者を出したまことに悲惨な事故でした。

 多くの人にとっては毎日同じように繰り返される通勤通学の日常の風景を突然襲った事故。それはJR西日本が安全を守る義務を怠ったことに原因があるのは明白ですが、私達の毎日繰り返される日常がいつまさかの非日常の世界に引きずり込まれるかわからない世界であることをあらためて感じさせる出来事であったと思います。しかし今回の事故は明らかに未然に防ぐことが出来た事故であり、このような事故によって私達の日常生活が突然遮断されるようなことが二度とあってはならないことだと思います。

 犠牲になられた方達のご遺族の悲しみはまだまだ癒されてはいないと思います。この一年の節目に報道を通じてもご遺族のさまざまな思いが伝えられていましたが、ある大学生の息子さんを亡くされたお母さんは息子に会える日が近づくと思うと歳をとるのが楽しみですと語っておられました。このような悲しい出来事に出会ったからといってそれですべてが終わりではありません。またあの世で息子さんに会える日が必ず来るのです。だからお母さんにはこれからの人生を大切に幸せに生きていって戴きたいと願わずにはおれません。息子さんもきっとそう願っておられるでしょう。

 話は変わりますが、実は福知山線脱線事故から一年が経った四月二十五日、私事ですが、三月ぐらいからよく咳が出て苦しく、特に夜眠れない日が多くなりましたので、疲労が原因かなと思いながらめったに行かない病院に行ったのです。市民病院に行ったのですが、呼吸器科で診察を受け、レントゲン撮影をしたのです。そして午後から再び診察室に呼ばれると、午前中とは医師が変わっており、レントゲンの写真を見ながら、肺に小さな影が写っていることを指摘し、「おどかすわけではないけれど肺がんだったらいけないから気持ち悪いからもう少し検査を続けましょう。」と言ったのです。

 私は自分の身体のことで肺ガンなんて言葉を聞くとは思ってもみませんでしたので動揺を覚えました。医師は万が一そうであってはいけないからという軽い気持ちで言ったのでしょうが、私の心はその肺がんという言葉にだけ反応し、それから翌月の検査の日まで不安な気持ちに揺れ動く毎日となってしまいました。

 その頃ちょうど諏訪中央病院の鎌田實氏の本を読んでいて、ガン患者のこともよく出てきて何気なく読んでいましたが、その日から他人事としては読めなくなってしまいました。不安な気持ちの中で、私は同じ諏訪中央病院の平方眞氏著「がんになっても、あわてない」や、国立がんセンター名誉総長末舛惠一著「肺がんー最新治療法のすべてー」、新潟大学大学院医学部教授安保徹著「ガン免疫力」、帯津三敬病院名誉院長帯津良一著「帯津流がんと向きあう養生法」などの本も読みました。しかし自分自身に不安があると、このような本はなかなか心を落ち着かせて読めないものです。やはり普段から自分が病いに冒されたことを想定して考えておく必要性を感じました。普段から考えていても現実になると頭で考えていたことなどぶっ飛んでしまうでしょうが、それでも何か役に立つはずです。

 不安の中で読んで感動を覚えたこともいくつかありましたが、一番心に残ったのは、帯津良一氏が遺体をお棺に納める仕事をしておられる青木新門さんという人の言葉を紹介している一文です。新門さんは「納棺夫日記」という著書の中で「末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい」とし、「説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい」と書いているそうです。以下帯津氏の文章を一部抜粋します。

 『「きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人」というのは、一部、宮澤賢治の言葉を借りた表現です。彼がそこで何をいおうとしているかというと、折にふれて自分の死について考える人といっているのです。死ぬときに人間は知らないところに入っていくのだから、不安になります。まったく知らない世界に行くわけですから。でも、もし前に先導してくれる人がいたら、不安はなくなるでしょう。・・・医療者、特に若い医師、若い看護師というのは、自分の死について考えていない人がほとんどです。そういう人が、死に直面している患者さんのところへ、痛み止めを打ちに行ったりするわけです。・・・・私達は折にふれて自分の死について考えてみるべきだし、そういう人が医療者にならなくてはいけない。医療者になったら、逆にまた、そういう習慣をつけなくてはならないのです。』それは医療者だけでなく、私達のように精神的に人のいのちと向き合っている宗教に携わる人間も同じだと思うのです。

 それにしても重い病気を抱え、まして若くして死と直面していかなくてはならない人は大変です。それを思うと、健康で毎日を生きていることが出来る人生は何とありがたいことでしょうか。私は健康な人間であればなおさら同情や哀れみではなく同じ人間として病いに苦しむ人と交流を持ち、いのちの問題を共に考えることも大切なことだと思います。

 幸い私は今回ガンではないことが五月の検査で確かめられましたが、今回のことでより一層自分の身体のことも注意しながら、氏子の皆様が健康で幸せに暮らしていくことが出来ますように、痛みのある人の痛みがやわらぎますように、不安のある人の心が平安になりますように氏神様に祈り日々の祭を奉仕したいと心から感じました。